映画版「キックアス」にガッカリした理由

※この記事には映画、コミック本編のネタバレが多く含まれています。未見の方は読まないことを推奨します。

上映館が少ないながらも無事上映された「キック・アス」。
映画見た人の評価も良くて、本国では続編の話も動いているとか。

自分もかなり期待してて、少し前に刊行された邦訳版コミックスも気に入ったし、楽しみに観に行ったのですが。
確かにヒットガールは可愛いしアクションも良いし、映像表現もおもしろいんですが、終盤に近づくにつれ違和感が出始めて、エンドロールが流れる頃には「えー」と言うしかなくなっていたわけで。

何が悪いかと言えば、何も悪くなくて、単に自分がコミック版を読んで「これこそ『キック・アス』だ」と思ってたところがピンポイントで変更されていたからなんですが。
(映画版とコミック版は同時進行という話もあり、「変更されていた」というのは正しくないかもしれませんが)

とりあえず自分の中で整理を付けるために、自分がどんな風に「キックアス」を読んだかをまとめてみます。


コミック版でも映画版でも、主人公のデイヴは語る。自分にはトラウマも特別な出自もないと。
平凡な人間にはスーパーヒーローにはなれないのか。
結論から言えば、現実世界では「なれない」のが正解。
しかし、そこを圧してスーパーヒーローにあこがれてしまった者、スーパーヒーローになるしかなかった者はどうすればいいのか。
そういう人間はスーパーヒーローになってしまう。ただし、大きなゆがみを残して。

それがキックアスの場合は半年近くの入院とリハビリ生活で、ビッグ・ダディの場合は、ありもしない”シークレット・オリジン”だった。
それでも「スーパーヒーローになる」という夢を叶えてしまったら、それから逃れることは出来ない。それは「正義のため」と言うより、「スーパーヒーローである」という麻薬的快感の依存症みたいなものなのかもしれない。
そんな「スーパーヒーロー」という業の深い病に冒されたのがキックアスであり、ビッグダディなのだと言えないだろうか。

当然、そういった手合いは報いを受ける。現実世界では犯罪は組織的なものであり、良くて数人のチームである「スーパーヒーロー」が、いわんや単なる人間である偽スーパーヒーローが勝てる見込みはゼロに近い。
かくしてキックアスはリンチを受けてタマを焼かれ、ビッグダディは命を落とすことになる。ついでにウイング男もビルから落ちて死んだ。
皮肉にも本物のオリジンを持ってしまったヒットガール(彼女は頭のおかしい父親に誘拐され、偽の刷り込みを行われ、殺しの訓練を受けた)だけが、日常に戻ることが出来る。

自分はコミック版「キックアス」からそういったテーマを感じて、「それでもスーパーヒーローを志すもの」の物語と受け取ったからこそ、ビッグ・ダディの苦い真実にも共感と切なさを覚えることが出来た訳で、映画版のビッグダディが「本当に」ギャングに妻を殺され、復讐のためにスーパーヒーローになったというのは、悪くはないけど「キックアス」の物語ではないと感じてしまって。

そして、だからこそ、「王道ヒーロー」にあこがれるキックアスは銃や刃物を使わず殺しをしない、肉体を使ったスーパーヒーローであるべきなのに(理屈ではなく、「そうなりたい」からそうなったはず。そこを曲げたらもうスーパーヒーローではない)、映画版の最後ではあの荒唐無稽なジェットパックで空を飛んでしまい(自分の力でなくビルを飛び越えてしまった)、ミニガンやバズーカでギャングを撃ち殺してしまったのが悲しい。そういうのは「ダークヒーロー」にあこがれたビッグダディやヒットガールの役割のはずなのに。

そう考えると、コミック版は「まともな奴はスーパーヒーローになんかなれない、ならあきらめるか? 答えはNOだ」という物語で、映画版は「普通の人間だってスーパーヒーローになれる」という物語だったように思う。だから映画版ではスーパーヒーローになってケイティといい仲になれるけど、コミック版ではなれない。だってただの頭のおかしい奴だから。

とは言っても、こういう映画見る人がみんながみんなシンプルなスーパーヒーローものに飽き飽きしてて、そこからさらにひねったものを望んでいるわけでもないだろうし、この辺が落としどころなんだろうけど。

まあそんなところ。

繰り返しになるけど、あくまで私見です。マーク・ミラーがどんなことを思ってコミック版を描いたかは知る由もないし、そもそもコミック版が原作というわけではないのだったら、映画版は映画版の楽しみ方をするべきで。

ただ、自分はこんな風に感じた、というのをまとめておきたくなったので。